本州最西端に位置し、三方を海に囲まれ自然美にあふれた山口県。
今日はどこを旅してみようかな♪
山陽小野田市高須にある厳島神社(市岐嶋神社)。境内には来嶋又兵衛(きじままたべえ)誕生地の記念碑が建てられています。
来嶋又兵衛(1816~1864)は維新の偉人の一人で、高杉晋作の奇兵隊に対抗し、遊撃隊を組織した人物として知られています。 ![]()
あまり遠出をせず近場の旅がしたいと思い、立ち寄ったのが来嶋又兵衛誕生地。ここへ来るときは新緑がきれいなときと、前々から決めていたのだ。
広くはない境内なので、新緑に包まれている感覚になってくる。そして風も強かったので、木々の揺れる音がとても心地よかった。
境内にある来嶋又兵衛誕生の記念碑。さて、来嶋又兵衛とは、どんな人物なのだろうか。
来嶋又兵衛(1816~1864)
奇兵隊に対抗し、遊撃隊を組織したとある。
境内には来嶋又兵衛についての説明板もあったので、引用して紹介しておこう。
又兵衛は剣は新陰・神陰両流の免許皆伝。槍術・馬術にも優れ、加藤清正の再来とか鬼又兵衛と呼ばれた。
また一徹な正義家であり、几帳面で行政面にも長じ大倹使役、江戸方御用所役、地方所帯方役など、藩の要職を歴任した。
禁門(蛤御門(はまぐりごもん))の変は、文久3年(1863)8月の改変。
都落ちした藩主の毛利敬親元徳父子及び三条実美ら七卿の雪辱の為に、又兵衛が急先鋒となり遊撃隊を率いて京にのぼり、禁門の蛤御門でここを守る薩摩や会津の兵との間で起きた戦い。
森鬼太郎と変名し、馬上で采配を揮って真っ先に進撃した又兵衛は、薩摩兵の銃撃隊として活躍した川路利良の銃弾で胸を撃ち抜かれ落馬。助からないと悟った又兵衛は、「運は天である。死は惜しむに足らないが敵に首を渡すを好まぬ。首を切って国に送れ」と遺言を残し、自ら槍で喉を突いた後、介錯を命じた甥の喜多村武七に首を刎ねられ果てた。
長州藩は禁門の変で、不幸にも敗れて一時朝敵の汚名を受け、二度にわたる幕府の征長軍を迎えたが、第二次征長戦の四境の役(四境戦争)で高杉晋作などの活躍で勝利をおさめ、やがて王政は復古し維新回転の実を結んだ。
又兵衛はいわばその火付け役、その功を賞されて明治24年、正四位を追贈された。来嶋又兵衛誕生地
旅をした日
2014年05月11日
………………………………………駐車場
無し
………………………………………周辺の立ち寄りスポット
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………………………………………最終更新日
2025/06/29
内容追記